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栗田家土蔵群

栗田家土蔵群は明治20年ごろ設立された栗田煙草合資会社が葉たばこの乾燥・貯蔵に使用していた土蔵です。最も古い土蔵は明治前期の建築で、会社の発展とともに増築を重ね、現在は5棟が残っています。
磐田市教委は平成18年(2007)年1月27日に土蔵群を市登録文化財の第1号に指定し、保存と活用に向けて地域の人々の期待が高まっているそうです。


01_栗田家土蔵群


02_栗田家土蔵群


03_栗田家土蔵群


04_栗田家土蔵群


05_栗田家土蔵群


06_栗田家土蔵群


07_栗田家土蔵群


08_栗田家土蔵群


09_栗田家土蔵群


10_栗田家土蔵群


11_栗田家土蔵群


12_栗田家土蔵群


13_栗田家土蔵群



こちらは栗田家土蔵群の近くに残っていた三角屋根の蔵。
14_土蔵


旧見付宿脇本陣大三河屋門。
20_旧見付宿脇本陣大三河屋門


旧見付宿脇本陣大三河屋門の案内板。
21_旧見付宿脇本陣大三河屋門


屋根瓦が美しいです。
22_旧見付宿脇本陣大三河屋門


昔懐かしい郵便ポストも残っていました。
23_旧ポスト


御朱印屋敷・冷酒清兵衛邸。
24_御朱印屋敷・冷酒清兵衛邸


冷酒清兵衛邸門。
25_御朱印屋敷・冷酒清兵衛邸


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旧赤松家住宅

旧赤松家住宅は、近代日本の造船技術の先駆者で、明治期に磐田原台地に茶園を開拓した海軍中将男爵赤松則良の邸宅跡です。明治20年代に建てられた門・塀・土蔵は県・市の指定文化財となっています。敷地内には庭園と旧赤松家記念館があり、記念館では旧赤松家ゆかりの文化財や寄贈資料等を展示するほか、有料で磐田茶の一服も楽しめます。


旧赤松家住宅の表門は県指定の文化財になっています。
01_旧赤松家記念館


表門前には大クスの木が赤松家を見守っています。
02_旧赤松家記念館


開館時間は、火曜から日曜(午前9時から午後4時30分)入場料が無料なのは嬉しいですね。
03_旧赤松家記念館


正面玄関。
04_旧赤松家記念館


木製の重厚な門扉。
05_旧赤松家記念館


アーチ型の洒落た窓。
06_旧赤松家記念館


正門両側には門番所が設置されています。
07_旧赤松家記念館


水屋と呼ばれる食器類の洗い場。
08_旧赤松家記念館


赤松則良の胸像。
09_旧赤松家記念館


敷地内に残されていた内蔵。
10_旧赤松家記念館


内蔵内部も資料館として公開されていました。
11_旧赤松家記念館


ガラス乾板写真に写った赤松則良。
12_旧赤松家記念館


明治期には旧赤松家屋敷東端に、屋敷続きで四間・二間半の内蔵があったそうです。
13_旧赤松家記念館


貯蔵庫には漬物などが保管されていたそうです。
14_旧赤松家記念館


敷地内に残されていた井戸。
15_旧赤松家記念館


庭園。
16_旧赤松家記念館


表門側から見た敷地内の風景。
17_旧赤松家記念館


敷地内に建てられた記念館では、旧赤松家ゆかりの文化財を展示・紹介しています。
18_旧赤松家記念館


市指定文化財の紙本金地著色・源氏物語図屏風(江戸時代後期)。
19_旧赤松家記念館


海軍中将男爵だった赤松則良の衣服。
20_旧赤松家記念館


市指定文化財になっている金高蒔絵。吉野山の桜山水が描かれています。
21_旧赤松家記念館


西周から贈られた硯箱。
22_旧赤松家記念館


万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行時に乗船した咸臨丸の模型。
23_旧赤松家記念館
咸臨丸にて渡米した際、艦長勝海舟より、航海中の功績あり、として、礼砲発射の号令を発する名誉を授かっているそうです。



【 赤松則良 】
幕府十五番組御徒士(御家人)・吉沢雄之進の次男として江戸深川に生まれる。1847年祖父赤松良則の後を継ぎ赤松姓となる。オランダ語を学び、蕃書調所に勤める。
安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米する。(艦長勝海舟)文久元年(1861年)に幕府よりアメリカ留学生として選任される。しかし南北戦争勃発のためオランダ留学生に変更となり、内田恒次郎・榎本釜次郎・沢太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)、長崎を出航してオランダへ向かう。
文久3年(1863年)4月にオランダ・ロッテルダムに到着。開陽丸建造と同時進行で、運用術、砲術、造船学などを学ぶ。慶応2年(1866年)に完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本釜次郎ら、同行のオランダ留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続する。慶応4年(1868年)大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着く。同年5月17日、横浜港へ帰着した。
戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁となった榎本釜次郎と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移る。静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方として徳川家のために尽くし、その後は明治政府に出仕して海軍中将にまで累進。主船寮長官、横須賀造船所長、海軍造船会議議長などの要職を歴任した。1887年に男爵を叙爵。貴族院議員もつとめた。明治26年に予備役となったのち、見付(現静岡県磐田市)へ本籍を移し、終の住家として旧赤松家(静岡県・磐田市指定文化財)を建造する。また、1889年に開庁した佐世保鎮守府の初代長官でもある。(Wikipediaより)


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淡海国玉神社

淡海国玉神社は、静岡県磐田市見付に所在する神社で、史跡・旧見付学校に隣接しています。
創立年月日は不詳だが、遠江国総社として崇敬され、式内社・淡海國玉神社に比定されている古社。三代実録に、「貞観七年五月八日授遠江國正六位上淡海石井神従五位下」とあり、もとは岩井原という地に鎮座していたが、いつのころか、現在地に遷座したという。



淡海国玉神社鳥居。
01_淡海国玉神社


手水舎。
02_淡海国玉神社


手水舎の隣には古井戸が残されていました。
03_淡海国玉神社


神門。
04_淡海国玉神社


神門脇の社記。
05_淡海国玉神社


淡海国玉神社の説明板。
06_淡海国玉神社


境内には狛犬の代わりにウサギが置かれていました。
07_淡海国玉神社


神社の境内では狛犬以外の「動物」を目にすることがあります。例えば、お稲荷さんのキツネや、天神さまのウシなど。これらは俗に「神の使い」といわれ、「眷属(けんぞく)」と呼ばれています。ここは「因幡の白兎」と縁があるためウサギが置かれているようです。
08_淡海国玉神社


社殿。
09_淡海国玉神社


境内全景。
10_淡海国玉神社


本殿。
11_淡海国玉神社


こけら葺き屋根が美しいです。
12_淡海国玉神社


境内裏には見付の老木として榎の木が祀られていました。
13_見付の老木・榎


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旧見付学校

「旧見付学校」は、静岡県磐田市見付に所在する洋風木造校舎です。

学制発布後間もない明治8年(1875年)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎で、北側にある幕末の私設文庫蔵・磐田文庫とともに国史跡に指定されています。
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開校当初は4階建てでしたが、明治16年に増築されて今の5階建てとなっています。
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記録によると明治14年の見付学校の生徒数は男300名・女182名の482名で、就学率は66%だったそうです。
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旧見付学校正門。
05_旧見付学校


入場は無料です。国史跡なのにタダで見学できるのは嬉しいですね。
P1120753_旧見付学校


基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間、奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。
04_旧見付学校


この建物は大正11年まで小学校として、その後は中学校・裁縫女学校・教員養成所・病院等として使用されていました。
07_旧見付学校


館内は明治期の授業風景や教員室等を再現し、教育資料や郷土の歴史・民俗に関する資料を展示しています。
08_旧見付学校


明治時代の授業風景を再現しています。
09_旧見付学校


教室の柱に掛かる古時計。
10_旧見付学校


懐かしい木製の机と椅子です。私が小学校入学時は木造校舎で木製の机と椅子を使っていましたが、半年後には鉄筋コンクリート造りの新校舎に移りました。
11_旧見付学校


オルガンも各教室に1台ありましたね。
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2階を見てみましょう。
13_旧見付学校


大正末期から昭和の初めまで、子どもたちはまだ和服を着ていたようです。
15_旧見付学校


当然、スニーカーなどありません。
16_旧見付学校


懐かしい玩具類。
17_旧見付学校


烏天狗の絵が描かれた丸い型の凧。
18_旧見付学校


これは戦前に使われた教科書のようです。
19_旧見付学校


3階は2階屋根裏を改築したので天井が低くなっています。昔の生活用品が展示されていました。
31_旧見付学校


これも懐かしい足踏みミシンです。母親が使っていたのを覚えています。
32_旧見付学校


4階と5階は望楼になっているため、狭くて急な階段を上ります。
34_旧見付学校


4階は四畳半ほどの広さで、ベンチが置いてありました。
35_旧見付学校


4階の窓から眺めた風景。
36_旧見付学校


最上階に登る階段。当時、最上階には「伝酒井之太鼓」が置かれて時を告げていたそうです。
中国の鼓楼のような存在だったのでしょうね。
37_旧見付学校


最上階の5階の窓から眺めた風景。
38_旧見付学校


最上階に置かれていた、この伝酒井之太鼓は、三方原の合戦の際、浜松城で酒井忠次が打ち鳴らしたと伝えられる太鼓で、磐田市の指定文化財にもなっています。
39_旧見付学校


【 墨塗り教科書 】第二次大戦後「国防軍備の強調・戦意高揚・国際和親を妨げる」等にあたる個所を墨で塗りつぶした教材を使用していました。ほとんど真っ黒になっています。
45_旧見付学校


最後に校長室に立ち寄り、校長先生に挨拶して学校を出ました・・・。
48_旧見付学校


校舎北側から撮影。
50_旧見付学校


旧見付学校北側にある岩田文庫は、淡海国玉神社の神官大久保忠尚(1825~80)が、寄付と資材合わせて200両を投じて元治元年(1864)4月に設立した私設図書館です。忠尚は自宅に門下生を集めて和漢の書を講じ、維新の際には遠州報国隊を組織して活躍したことから、磐田文庫は遠州国学の象徴とも言えます。内外の図書版本43部430冊。写本17部467冊を所蔵しています。
55_磐田文庫


建物の構造は、角材を積み上げた校木造(あぜきつくり)二階建てで、間口5.5m、奥行き5.7m、平面積約31㎡を測り、4室が設けられていました。
57_磐田文庫


昭和44年(1969)旧見付学校とともに国の文化財に指定され、平成4年(1992)県の補助金を受けて解体復元修理を行いました。
58_磐田文庫


旧見付学校の程近い場所にあった「子どもやくよけ地蔵」
太平洋戦争末期、昭和20年5月19日の昼近く空襲警報が発令。田中早苗訓導が引率する河原・幸町等の児童は、学校から直ちに退避し、磐田工業学校(現磐田北小幼稚園)の正門付近へさしかかった時、飛来した米空機B29が投下した爆弾が、道路の南側の溝に伏せていた児童を直撃。時に午前11時40分であった。この爆発で田中早苗訓導が殉職、児童28名が死亡した。現地には翌年、慰霊碑と「子ども厄除け地蔵」が建立されました。
P1120895_見付国民学校先生&生徒遭難の地


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本立山・玄妙寺

本立山・玄妙寺は静岡県磐田市見付に所在する日蓮宗のお寺で、ご本尊は久遠実成本師釈迦牟尼仏。玄妙寺は、今から620年前、室町時代の元中2年(1385)〔北朝至徳2年〕日什門流の開祖玄妙阿闍梨日什上人によって建立されました。
毎年11月12・13日には宗祖・日蓮上人のご報恩お会式・お命講が盛大に営まれます。お命講の「子育てぞうり」(わらぞうり)を子供にはかせると疫病にかからず、元気な子供に育つといわれていて、ぞうりはお命講で一足を借り、翌年のお命講にお礼参りをして二足返すという習わしがあります。この民俗行事は江戸時代に始まったといわれ、今日でもなお子供の健康と成長を願う親たちの素朴な信仰を集めています。



見付宿の細い路地を入っていくと山門があります。
01_玄妙寺


山門前の路地は玄妙小路と名付けられていました。
02_玄妙小路


玄妙寺山門。
03_玄妙寺


山門脇にあった玄妙寺の説明板。
04_玄妙寺


山門越しに眺めた本堂。
05_玄妙寺


子育て水かけ地蔵。
06_玄妙寺


玄妙寺本堂。
07_玄妙寺


本堂拝殿。
08_玄妙寺


境内の隅には経典を納める経蔵がありました。
09_玄妙寺


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