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浅草寺 (20200318)

吾妻橋から浅草寺に向かいましたが、雷門の提灯がありません。
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お知らせの看板には、大提灯は新調のため、4/17まで外しているとのことですが、提灯が無いと物足りないですね。
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人がいなくなった夜の仲見世。
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仲見世の先に浮かび上がる宝蔵門。
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宝蔵門手前に植えられたしだれ桜が見頃を迎えていました。
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宝蔵門の先に本堂があります。
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浅草寺本堂
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五重塔とスカイツリー
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本堂とスカイツリー
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方広寺 三重塔 (20200209)

浜松市北区引佐町奥山の、方広寺にある三重の塔は、京都の篤志家山口玄洞氏が寄付し、1923年(大正12年)に建立したものです。山口氏は、大阪でラシャ問屋を営み、第二次世界大戦中に財を成しましたが、英宗老師という方の忠告で好景気のうちに商売を手控えました。後の終戦と共にあちこちで倒産者が相次ぐ中、忠告を守った山口氏は倒産の難をまぬがれ、その後も社業が発展したという故事から、この三重の塔は、「倒産よけの塔」として、全国の財界人がよくお参りにくる場所になったそうです。
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2019年9月には登録有形文化財に登録されています。
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三重塔の横には一本の河津桜が植えられて、花を咲かせていました。
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今年は過去にない暖冬のため、各地の河津桜の開花も早いようで、この桜も満開に近い状態でした。
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ご覧いただき、ありがとうございました。

浜松城と元城町東照宮(20200124)

浜松城に行ってきました。
徳川家康が築いた浜松城は、天下統一への足がかりとなった「出世城」です。
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永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。
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徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。
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徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事で、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原の合戦は、関ヶ原の合戦以上の激闘であったと伝えられています。家康にとって、浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えるでしょう。
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三方ヶ原の合戦は、元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦いで、家康の生涯で最大の敗戦と言われています。武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰ったのでした。城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと伝えられています。
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合戦の夜、家康はなんとか一矢を報いようと、三方ヶ原台地の南端にある犀ヶ崖で夜営していた武田軍を奇襲。崖に白い布を架けて橋と見せかけ、地理に疎い武田軍は次々と崖下に転落したと伝えられ、いまも「布橋」という地名が残っています。現在、犀ヶ崖では、毎年7月15日に三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納され、市の無形文化財に指定されています。
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浜松市内には、三方ヶ原の合戦にまつわる地名が残っています。たとえば、「合戦に敗れた家康軍は逃げ帰る途中に空腹をおぼえ、1軒の茶屋に寄って小豆の餅を食べていました。そこへ追ってきたのが武田軍。家康は慌てふためき代金も払わず茶屋を飛び出しました。驚いた茶屋の老婆は、数キロ先まで追いかけて、代金をもらうことに成功しました」…そんなことから、この茶屋のあった場所を「小豆餅(あずきもち)」、老婆がお餅の代金を受け取った場所を「銭取(ぜにとり)」と呼ぶようになったそうです。
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徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました。
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浜松城には、藩政260年の間に25代の城主が誕生しました。在城中に幕府の要職に就いた者も多く(老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人※兼任を含む)、浜松城は「出世城」と言われるようになりました。なかでも有名なのが天保の改革を行った水野越前守忠邦。天下統一を果たした家康にあやかって、自ら進んで浜松城主になったと言われています。
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平成29年4月に近隣学校との統合により閉校した旧元城小学校(浜松城二の丸)の発掘調査を行っています。江戸時代の浜松城を記録した絵図を参照すると、今回の調査地内には、二の丸御殿や門、石垣、堀などがあったことがうかがえます。今回の調査は、二の丸に関わる痕跡とその残存状態を把握することを目的にしています。
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浜松城のある一帯にはもともと引間城と呼ばれる城がありました。1568年(永禄11年)に今川方の拠点であった引間城を攻め落とした徳川家康は「馬を引く」という名前は負け戦を意味するため縁起が悪いということで、地名を「浜松」にあらためて、さらに城を大幅に拡大して浜松城を築きました。
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明治19年、引間城跡に旧幕臣・井上延陵が創建したのが元城町東照宮(浜松東照宮)で、徳川家康立身出世の地に家康を祀る東照宮がないのはどうしたことかと考えた井上延陵は、引間城跡に東照宮を建立しました。
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手水舎の作法。
①右手で柄杓を持ち左手を清めます。
②左手に柄杓を持ち換えて右手を清めます。
③右手に柄杓を持ち替えて左手に水をためて口をすすぎます。(衛生面が気になる場合は真似でもOK)
④口をすすいだ左手を清め、柄杓を立てて残った水を柄杓の柄に流して清めます。
⑤柄杓を戻して終了
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手水舎の屋根の下には日光東照宮と同じような眠り猫がいます。
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また、手水舎の天井にも龍の彫刻が飾られています。
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徳川家康ゆかりの地ですが、豊臣秀吉が訪れた城でもあるため、ふたりの武将を天下人へと導いた場所ということで、、「出世神社」と呼ばれています。
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境内には徳川家康は31歳の壮年像、豊臣秀吉16歳の少年像が立っており、二人の間にはお立ち台があり、出世にご利益があるパワースポットとしても注目されています。
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ご覧いただき、ありがとうございました。

夜の上野公園Ⅱ (20200115)

上野公園内には神社仏閣もいくつかありますが、上野東照宮は、日光東照宮・久能山東照宮と並び三大東照宮の一つに数えられています。
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上野動物園内にある五重塔は上野東照宮の参道脇にあり、元々は上野東照宮の五重塔として建立されました。
(重要文化財)
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幕閣の土井利勝が寛永8年(1631年)に造営寄進しましたが、寛永16年(1639年)に花見客の失火により消失するという事態に見舞われました。しかし、その年のうちに再建され、その後、明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理しています。
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花園稲荷神社も上野公園内に鎮座する神社で、旧名称は「忍岡稲荷」。朱の鳥居が目印で石窟の上に祠があったことから江戸時代には「穴稲荷」として親しまれていました。古くより縁談、商談、就職等の縁結びの神社としても知られています。
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寛永寺は、徳川将軍家の祈祷所・菩提寺で、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇ったが、慶応4年(1868年)の上野戦争で主要伽藍を焼失し、残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけで、明治維新後、境内地は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして寺は廃止状態に追い込まれました。
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最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたという寛永寺ですが、江戸時代の境内地だった場所は上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌しましたが、子院の1つの大慈院があった場所に川越の喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし復興の途につきます。
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第二次世界大戦の空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失しましたた。上野戦争で焼け残り、第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在し、重要文化財として保存されています。
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寛永寺から階段を下りて不忍池に向かうと不忍之池 弁天堂があります。
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不忍池 弁天堂は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
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不忍池の弁天さまは「谷中七福神」のひとつで、七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、ここに尽力したのが天海大僧正であったと言われ、谷中七福神は江戸最古の七福神とされています。当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するという風習が広く行われていました。
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弁天堂には、谷中七福神とは別に「大黒天(だいこくてん)」がお祀りされています。こちらの大黒さまは豊臣秀吉公が大切にしていたという伝説があり、幕末の戦争や太平洋戦争といった難を免れ、今日に伝わっています。大黒天は福を授ける神・福を招く神として知られ、家門繁栄や富貴をもたらすといったご利益があります。
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昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。
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ご覧いただき、ありがとうございました。

東京大神宮 (20200114)

江戸時代、伊勢神宮への参拝は人々の生涯かけての願いでした。明治の新国家が誕生すると、明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治13年に創建された「東京大神宮」は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に「日比谷大神宮」と称されていました。関東大震災後の昭和3年に現在地に移ってからは「飯田橋大神宮」と呼ばれ、戦後は社名を「東京大神宮」と改め今日に至っております。
 現在広く行われている神前結婚式は、「東京大神宮」の創始によるものであり、今も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えています。
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飯田橋駅から徒歩5分ほどの、ビルが立ち並ぶオフィス街に鎮座する東京大神宮は、〝東京のお伊勢さま〟として親しまれ、格式高い「東京五社」のひとつです。そして、東京で最も縁結びのご利益がある〝恋のパワースポット〟としても人気急上昇中!とのことです。
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神門
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参道・拝殿
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拝殿
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授与所・拝殿
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東京大神宮と伊勢神宮の大きな違いは、参拝の順序が定められていないことだと言えます。内宮と外宮に分かれている伊勢神宮は、お参りの順序が外宮から内宮へと決められています。東京大神宮は、伊勢神宮のように分かれていないので、一度の参拝で内宮と外宮の両方の神様をお参りできます
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